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この年齢になって、やっと “世の中のカタチ” が見えてきたような気がします。
思えば、義務教育を受け、当然進むべき道のように進学し、勧められるがまま就職し、何を振り返る余裕も無いほど忙しい毎日に振り回され、ゆっくりと世の中のカタチを把握する暇も無かったようです。
しかし、その “忙しさ” の御陰でオレも周りの連中も、違和感や理不尽さは感じつつも一日一日を乗り切ることで精一杯な生活を繰り返しているのでしょう。 そういう意味では、今の世の中は非常に完成された世界なのかもしれませんね。 迷う道も、考える余裕も与えない程、完成されたシステムで成り立っている世界なのですから。 一見。
誰もが義務教育課程において疑問に思っただろう 『勉強が将来何の役に立つのかな?』 や、 『このまま社会の歯車として一生を生きていくのかな?』 も、有無を云わせぬスピードで過ぎてゆく世の中の完成されたシステムの中で生活しているうちにウヤムヤになり、社会に出て、結婚をし、子供が生まれ家庭を築いた時には “時、既二遅シ” 。 自分の家族を守るだけが精一杯となり、その後もチラチラ目に映る 「理想」 には目を伏なければ現実についていけなくなり、結果、 「理想」 を否定しなければいけない状態にまで追い詰められ、歪んだ世界でヨシとする。 ・・・コレが今の社会のカタチ。
歪んだ世の中で育った人間が歪んだ政治家を生み、歪みに対する責任転嫁の的にする。 非常に自然な流れです。 当然、国民全員が歪んでいるので政治家だって歪んでいる。 社会自体が歪んでいるので、会社の社長や上司も歪みっ放し。
そして、ソレを痛感させる言葉を社会人なら一度や二度は上司や先輩から言われてきたんじゃないかと思います。 『やりたくなくてもしなきゃいけない事があるんだ!』 です。
“やくたくなくても” っていうのは、簡単に云うと “道徳的じゃなくても” って事ですね。 『キレイ事だけじゃ世の中は回らないんだ』 という事です。 確かに、現在の世の中は間違いなくそうです。 キレイ事じゃ回らない世の中です。 キレイ事じゃ回らない世の中を作った人がいて、キレイ事じゃ回らない世の中のほうが実は “己の欲望に対して素直な世の中” なので、欲望中心の世の中を存続させる為には当然キレイ事だけじゃ収まらない、という寸法なワケですね。
良いモノを食べ、良い服を着て、良い車に乗る為には一旦出来上がった社会を続けるしかない。 それによって人間以外の生物に犠牲が出ようと、経済格差を生むことで飢餓難民を生もうと、先進国で発生したゴミをその後進国へ押し付けようと、北極が溶けようと、砂漠化が進もうと目を瞑って、己の欲望を満たす為だけに目を瞑って進んでいく。 「エコ」 だの 「ロハス」 だの言葉だけがカラカラと虚しく空回りしたまま必要以上にガンガン電気を使い、必要以上にブンブン車に乗り、必要以上にガツガツ動物を殺し、その遺体を食べ、突き進んでいく。 「便利さ」 という快楽を突き詰めた挙句、人間が生きていく上で必要の無いモノばかりが溢れ返っている。
では何処から、何時からソレが始まったのかといえば当然イタリアの 「ルネッサンス」 以降、ということになるのでしょう。 “キレイ事だけじゃ回らない世の中” を正す為には、いくらどう考えてもその時代以前の生活に戻る他手立ては無いんですから、後戻りなんか出来ません。 人間という 「欲望」 生物には無理です。
コレは一見、俗に 「テロリスト」 と呼ばれているイスラム原理主義者連中などに近い発想に映るかもしれませんね。 だって 「資本主義」 「西洋文化」 だって見方を変えれば 「宗教」 の一つですし、「洗脳」 の一つなんですから。 しかしオレは宗教が大嫌いですし、オレは社会主義者でも共産主義者でもなく、ましてや資本主義者でもなく、しいて云えば 「地球主義」 でありたいと願っているだけです。
正直 『やりたくなくてもしなきゃいけない事があるんだ!』 の社会を築いてきた世代を恨んでも恨み切れないトコロはあるんですが同時に、当時の日本の状況を考えれば誰を恨むことも出来ません。 太平洋戦争後の混沌の中、生きてゆく為に無我夢中で掴んだ豊かさが結果、こんな暖衣飽食の時代へと変わってしまうなんて誰も想像しなかったんでしょう。
実際、今の戦後生まれの連中をみていると、そんな同情は打ち消したくなるようなクズばかりにしかみえませんが、無理やりにでも前向きに捉えることにします。
昭和より以前に、こういう “世の中” が訪れることが百も承知だった人もいたようです。
何故、明治時代、夏目漱石が発した 「警鐘」 に誰も気がつかなかったんでしょうか? 何故、誰も真摯に向き合わなかったんでしょう? 戦後にだって三島由紀夫が “最後の警鐘” を鳴らした筈です。 己の身を持って。
最近の話題に当てはめると、世界的原油高やサブプライム問題が発端の金融恐慌に世界が右往左往している姿が鼻で笑いたくなるほど滑稽に映りますが、資本主義経済自体が 「バブル」 だったんだと、タネも仕掛けもある 「手品」 だったんだと当事者達は気付いているはずなのに、人間が持つ欲望がジャマをして今後も目を伏せ続けて、今後もただただ突き進んで行くのでしょうね。
なんでも、ドストエフスキー作の小説 「カラマーゾフの兄弟」 が “東大生に薦めたい本の第一位” だとか本の帯に謳ってありましたが、薦められた東大生達は、この本を読んでどんな感想を持つんでしょう?? 『気持ちは判るけど、現実的じゃないよね』 でしょうか? 既にこの “世の中” に染めきられてしまっている学生達には “おとぎ話” にしか映らないんでしょうか? 何の学生運動も発生しない今の状況をみれば答えなんて聞かなくても分かってますが。。。 今の東大生なんかに薦めても何の役にも立たない本でしょう、あれは。
「カラマーゾフの兄弟」 はロシア文学であり、キリスト教という宗教が基本テーマではありますが、非常に日本人にも当てはまる内容だと思います。
経済発展国の中で、日本は最も自営業者の割合の少ない国だそうですが、日本人は “従う” 事、言い方を換えれば “おんぶに抱っこ” が好きな民族なので、これをカラマーゾフ的にいえば “地上のパンを求め、服従する対象を求め続ける弱く哀れな存在” に一番近い気がします。
今回の 「世の中のカタチ」 は、“自分自身の人生が何処にあって、何を元に組み立てられ、何に管理されているのか” についてでしたが、ソレを考える時間を作れたというのはオレにとって幸運だったかもしれないけど・・・、ひょっとすると逆にコレこそがオレにとって最大の不幸だったのかもしれないです。 「世の中のカタチ」 など見えないほうが幸せだったのかもしれません。
もし思春期に 『勉強が将来何の役に立つのかな?』 という疑問に対して的確に、今の時代に飲まれやすいように答えられる大人が一人でもいたら、オレもこんな人間には育たなかったのかもしれませんから・・・。 少なくとも既に家庭を持ち、 “家族を守る責任” が発生してしまった後では簡単に身動きが取れない状況になっていたんですから。
公約! 一年間、全ての法律を無くします。
少々手荒な方法ですが、「平和ボケ日本人」 に生命や平和のありがたみを身を持って分からせる唯一の手段かもしれません。 いったん日本国を無法地帯にしてしまい、究極の憎しみや苦しみや悲しみを味わせないことには今の日本は改善できそうもない気がします。
震災後の現在の神戸市民が良い例です。 神戸は現在、防災用品の家庭普及率全国一位らしいですから。
コレまでの虚しさを払拭できる素晴らしい公約が思いつけて、本当に良かった。
個人的にも、現役時代からファンだったペップ(ジョゼップ・グアルディオラ)が監督に就任し大きな期待をしていたけど、想像以上にド派手なサッカーを展開してくれてます。 選手にも、メッシやシャビ、アンリ、エトオ、など世界屈指のタレント陣に加え、今年からダニエウ・アウベス、ケイタがセヴィージャから移籍して、より連動性と展開力が増しました。
シーズンは始まったばかりで時期尚早ですが、リーガ、チャンピオンズ・リーグ共に優勝を期待してしまいます。
* イタリアのインテル・ミラノ監督に就任したジョセ・モウリーニョの動向にも注意しつつ、イングランド、リバプールにも期待。
「FIXx メタリカ xXER」
http://metalinc.exblog.jp/
「パンのかけら と ちいさなあくま」 は、オレが通っていた幼稚園に置いてあった絵本のタイトルです (このブログのタイトルもココから拝借してます)。
当時、絵本は好きじゃなかったんですが (女の子が読むモノと決め付けてたので)、あの本だけは何故か今でもしっかり覚えています。 たまたま近所の幼馴染みの家にも置いてあったから尚更かもしれません。 だからといって普通、絵本のタイトルまで覚えていられるモンじゃないんですが、昨年たまたま、甥子のクリスマスプレゼントを考えている時に、フッと思い出したのがキッカケでした。
思い出したのは、物語や、不気味なのに可愛らしい挿絵もなんですが、何より子供心に強く印象に残っていたのが “悪魔が良心を持っている” ことでした。
“この世には完全な善人も、完全な悪人もいない”
昔観た映画 「ディアボロス(The Devil's Advocate)」 では、アル・パチーノ(Al Pcino) が経済界のドン役で出演していて(モデルは間違いなくロックフェラー)、その映画のテーマが “大儀を成す為の小さな悪は必要悪” な感じで、善い事をするにも、その過程で必ず乗り越えなければならない悪事 (犠牲) が存在し、逆にそれを乗り越えられた者だけが大きな 「善」 を行なえる、みたいな何とも割り切れないモノでした。 ちなみに映画では最後、アル・パチーノの片腕となったキアヌ・リーブス(Keanu Reeves) が善悪の狭間で苦悩の末、ボスを裏切るカタチで在野に下る。
無慈悲、非情と云われる一方で、事業家 (石油王) ・慈善活動家として世界的に有名だったロックフェラー氏の 「悪魔信仰」 っぷりは有名らしく、ニューヨークのロックフェラー・センター (現:GEビル) には当時、悪魔に纏わる絵画や彫像が数多く飾ってあったそうです。 誰でも助けるフリだけする 「神」 よりも、敢えて誰も助けない 「悪魔」 こそが真実に映ったんでしょう。
例えば、山間にある人口500人の小さな村が突然、ダム湖建設地となってしまい、村人は猛反対したものの建設が始まってしまう。 村人にとっては大切だった想い出も、伝統も、家も、お墓も、花々も、全て湖の底に消えてゆく。 しかし別の方向から見れば、その下流に住む人口10万人の街では、そのダムのおかげでやっと深刻な水不足から開放され、安心して生活を送れるようになった、と。
全ての人を満足させる事が出来ないことは多分にある。
ロックフェラーの 「悪魔信仰」 も、犠牲になった者達への自責の念が苦しみとなり、その苦しみを和らげるはずの、そして犠牲者を救うはずの「神」の無力さ・無意味さが、それまでの 「信念」 を 「疑念」 に変えてしまった結果なのだと考えた方が自然な気がします。
そう考えてみれば、これまで当ブログで書いてきた人々の・・・、 政治家殺しの右翼員、中国の政治家達、 「もう、国には頼らない」 渡辺美樹氏、井伊直弼、プーチン、曹操孟徳 (映画「Red Cliff」楽しみ) 、そして我々の前の世代 (団塊の世代でもいい) も、それが善かれ悪かれ、個々が客観的にみてどうであれ、本人達が信念を持ってやってきた事には違いない。 そして我々は、その上に乗っかって生きているのも事実。 どうあがこうとも、乗っからずに生きる事なんて出来ないですし。
オレの名は、悪しき子羊。 地に堕ちた世の中で憂いを語る。
★追記★ (2008/11/27)
たまたま今読んでいる小説 「カラマーゾフの兄弟」 にも同じような事が書いてあったので、追記します。
ドストエフスキーの言葉を借りるなら、哀れな人間共が望んでいるのは、キリストが与えると約束した “天上のパン” なんかではなく、“今食べられるパン” なんですよね。 我々は人間である以前に動物だからです。 それを現代に置き換えてみれば、 “目の前にあるパン” のみに価値を置いたのが西側資本主義社会。 そして未だ “天上のパン” こそ絶対的存在なのがイスラム社会、という事でしょう。 しかし面白いのは、その西側社会の根底には 「キリスト教」 という (関係破綻しているかのように思える) 土壌の上に成り立っている点です。 辿れば古くは15世紀のイタリア・ルネッサンス期が、西側社会が “天上のパン” に見切りを付けた時期に当たると思いますが、それでも未だ資本主義とキリスト教の共存が成り立っているのは、結局、宗教が欲望と理性をコントロールするという大きな役割を果たしているからなんでしょうか。 ・・・いや、共存している、成り立っているとは言えませんね。 「資本主義」 という悪への罪悪感が未だ人々から取り払われていないんでしょう。 その罪滅ぼし的存在にキリスト教を残しているんでしょうね。 そう考えると実に潔くない連中の集団です。 キリスト教徒ってのは。
ちなみに 「カラマーゾフの兄弟」 の現在の読書進行状況。 読み始めたのが一年半ほど前・・・で、第一編を読み終わるのに半年ほどかかり、第二編は強烈に面白くて数時間で読み終え、第三篇から第四篇の終わり辺りまでがまた苦痛で読むのに一年ほど労し、第四編の終わり辺りからまた変態的な面白さになり、今、第五編を読んでいる最中なんですが・・・コレがクセ者で・・・。 第五編の 「大審問官」 を何度も読み直しているところです。 ドストエフスキーの云う、“本当に神がいるなら何故、まだ 「罪」 を背負わぬ生まれたばかりの子まで殺すのか?” は、オレもずっと同じことを思ってましたので、何を今更?って感じです。
「絵本ナビ」 / 「パンのかけら と ちいさなあくま」 を紹介・販売しているサイト
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=5069
吉田松陰と井伊直弼、正義はどちらだ? 勝者はいたのか? 己の信じる道を行く。