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『オレが総理大臣ならこうするのに!』 を公約として書いたりしています
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「精神論」 21世紀の今日、最も敬遠される言葉の一つです。


 北京オリンピックが盛り上がっているので見る機会も多いんですが、昨日、柔道競技を見ながらある人と会話していて思ったことを書きます。
 発端は彼が発した言葉でした。 『これは柔道じゃない。レスリングだ』
 事実、海の向こうでは 「ジャケット・レスリング」 とも称されているとのことです。 日本の 「柔」 の心が、世界に存在していないことは百も承知な筈ですから、承知で世界に広めるには、柔道をレスリング化するしかなかったんだと思います。 腰を引いての袖の取り合い、時間つぶし、諦めの早さなどの外国人特有の合理的行為を見ていると日本人としては嘆かわしくも思えますが、しょうがないのでしょう。 

 同様に、相撲にも思います。 一時期、相撲界では外国人力士に対する 「品格」 を問うようなことが多かったようですが、外国人を入れることを決めた時点でソレは半分諦めなければならないと思います。 「品格」 は、押し付けで体得出来るものじゃないからです。 
 “郷に入れば、郷に従え”  従いたくても 「品格」 の定義すら理解できないでしょう。

 更にソレは、個人的に大好きなサッカーの世界でも非常に目に付きます。 スポーツには 「ルール」 がありますが、ルールというのは守れない人の為にあるものなので、ルールを守れる人には必要ないものです。 一般生活でも同じですが、ルールを守れる人にとっての基準は、当然 「道徳」 です。 そんなモノは世界基準には無いでしょう (「マナー」 「モラル」 と呼ばれる都合のいいモノは存在しているようですが、比較にならない)。 実際、外国のサッカーを見れば分かりますが、彼らに 「道徳」 が存在しないのはモチロンのこと、いかにバレないようルールを破るかに必死です。 幸か不幸か、未だに日本人はルールを守るのはもちろん、シュミレーション (審判を欺く行為) などに対しても自重しているのが見えます。 きっと、道徳的許容範囲外だからです。 きっと、それが男らしい行為ではないからです。 ただクドイですが、それでは世界とは何時まで経っても同じ土俵には立てない。
 数年前、日本代表監督をしたジーコ氏を含め多くの外国人達が 『日本人には“ズル賢さ”が足りない』 とこぼしていました。 が、その 「足りないもの」 こそが日本人が本来大切にしてきたモノですしね・・・。
 オレには、今の日本人が 「日本の心」 を捨てて勝利にこだわるのか、 「日本の心」 を守る範囲内で努力を続けるのか、どっちに転びたいのかは分かりません。 ただ、今のままの中途半端では、いつまでも中途半端のままでしょう。

 話は戻りますが、今回、北京オリンピック柔道でも多くの日本人選手たちが口を揃えて日本人らしい言葉を言っていました。 『「一本」 にこだわる』 と。 “勝負(メダル)だけ”にこだわるなら 「効果」 一つでもいいのにです。 そして本日、同・野球種目で “試合5分前に選手を交代することを認める” という直前のルール変更があったことに対して、日本代表監督の星野氏も言ってました。 『ルール変更があろうと日本はそんなことはしない。正々堂々とやる』 と。 

 

 オレの父親が以前 『オレたちは、自分の親が貧しい日本で死ぬまで苦労して自分達を育てた姿を見てきた。 だからこそ、何が何でも生活を豊かにしなくちゃいけないと一生懸命働いてきた』 と語ってました。
 素晴らしいです。 そして実際、世界と肩を並べるほどの経済発展をやり遂げたのですから、ついては誇りに思います。
 ただ、その目標を実行するにあたり、とてつもなく多くの犠牲が必要でした。 環境的な意味でも、教育的な意味などでもです。
 外国的資本主義に馴染みのない日本人が、無理矢理にでもソレを取り入れなければ、今のこの生活は手に入れられなかったのですから。 自分の道徳を曲げ、臭いものには蓋をし、成功にジャマするものからは目を背け頑張ってきたのだと思います。 そう思うだけで、どれだけ過酷な人生だったかと思い、たびに身が震えます。 本当は “ルールぎりぎり” ではなく、 「道徳」 を持って戦いたかった筈なんです。 だからこそ、 “我々「次世代」は、その繁栄の代償・犠牲になったモノを、「前世代」への感謝を込めて取り戻さなければならない” のだと思えてなりません。 


*日本には古来から 「江戸しぐさ」 というモノが存在してる、らしいです。 例えば、人に足を踏まれたら踏まれた側も“自分も不注意だった”と反省する。 道を歩くとき、事前に他の往来に備え隅を歩く、などなど。 これも 「舶来型資本主義」 と両立するには難しいものに思えます。





★追記★ (2008/09/09)
 またまた大相撲協会が賑わっているようです。 今度は、ロシア人力士3名による禁止薬物・大麻の自己吸引疑惑を巡って揉めている模様。 
 今更ながら、もう相撲は (柔道や剣道も含め)、今後 「スポーツ」 という枠から除外しなければ打つ手が無い時期を迎えていると思えます。 これらをスポーツとして区切ってしまうには、「精神」 や 「伝統」 「格式」 「品格」 など、余りにも “違う定義” が含まれすぎている。 本来、スポーツに存在するのは 「ルール」だ けですから・・・。  個人的には、サッカーや野球やテニスなどと一緒に分類するよりも、歌舞伎や能など「芸能」という位置付けの方が近いとすら感じます (柔道や剣道は芸能じゃないですが、スポーツというより 「修行」 に近い存在と思えます)。
 既に世界に出してしまった柔道や剣道(中国で人気だとか)は、名称を変更して正式に 「ジャケット・レスリング」 や 「バンブー・ストライク (竹刀打ち)」 など別物にしてしまい、外国人を受け入れてしまった相撲界は “今後これ以上外国人は受け入れない” ようするなど、改革すべき時だと思います。
 じゃないと、今回のロシア人力士やモンゴル人力士のような、 “あいまいな規定のまま国際化を計った協会” の生んだ犠牲者は今後も後を絶ちませんし、可哀相です。  オランダなど、合法化してる国すらある「大麻」の場合、国際スポーツ機関でも罰則はせいぜい “一定期間の出場停止” 程度のモノなのに、今回相撲協会が下したのは 「解雇」。 国際的スポーツ感覚と、「精神」 や 「伝統」 は違いすぎるんです。 モンゴル人達に関しても、↑で書いたとおり、存在しない 「品格」 は押し付けても身につけれませんし、頑張って押し付けても、前事件のようなボロをボロボロ生み続けるだけです (モンゴルの教育システムや風土から手を加えるつもりなら別ですが・・・)。 

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